1393模型飛行機の教育⑬
1393模型飛行機の教育⑬:趣味際人
(承前)
終戦時の「模型飛行機人口1000万人!」を前提とすると、筆者が体験した模型航空界の年齢構成は不思議です。これについては、仮説・想像の域を出ませんが、筆者なりに考えてみました。
戦争終末期には、教育システムそのものが怪しくなってきて、一定の資材・教材を必要とする模型飛行機製作は早期に困難になっただろうと思います。だから、昭和16年時点で計画された模型飛行機教育がどこまで実行されたかは疑問で、筆者の推算した「模型飛行機人口1000万人」は目減りがあるかもしれません。
模型飛行機教育が長期間にわたり、高年齢・高習熟度に至れば、自習能力が付くと思いますから、教育システムが無くなり先生が居なくなっても、興味のあるグループは自分で活動を続けるでしょう。時代的に飛行機は興味の対象になる要素が強く、自発的な参入は期待できます。しかしながら、模型飛行機教育を受けた年齢が低く、継続期間も短かったとすれば、自習能力は低く、独力の継続は困難です。
この環境に追い討ちをかけたのが、占領軍による、いわゆる「模型飛行機禁止令」です。
後年の分析に拠れば、米軍が意味する「模型飛行機」は、風洞実験模型のような実機の開発を目的とする「模型」であって、ホビー/スポーツとしての模型飛行機は指していなかったということです。
このことは、北村小松氏が交際のあった米軍関係者に確認して明らかになったようですが、すでに役所の公式な通達として流れてしまい、昭和23年(1948)くらいまでは模型飛行機を飛ばすことは非合法活動になってしまいました。現実に、警察に呼ばれ、機体を没収されたモデラーが居たようです。
占領軍が絶対の時代であり、実態を把握する英語力の無い日本の官僚が米軍に追従し、「模型」を拡大解釈したのかもしれませんが、模型航空界にとっては残念な事件でした。
対照的なのが第1次大戦後のドイツの対応で、ヴェルサイユ条約の「航空禁止」の抜け穴を探して、スポーツ航空に活路を求めた「したたかさ」が当時の日本にあれば、日本の模型航空の復興や国際化も数年早まっただろうと思います。
「模型飛行機禁止令」は、公式にはサンフランシスコ講和まで有効であったはずですが、それより前に黙認になり、もっと筋金入りのモデラーは米軍基地内に入って米兵と一緒に飛ばして、バルサとタバコとチョコレートを稼いでくることもあったようです。


Recent Comments