November 16, 2009

1393模型飛行機の教育⑬

1393模型飛行機の教育⑬:趣味際人

(承前)
終戦時の「模型飛行機人口1000万人!」を前提とすると、筆者が体験した模型航空界の年齢構成は不思議です。これについては、仮説・想像の域を出ませんが、筆者なりに考えてみました。

戦争終末期には、教育システムそのものが怪しくなってきて、一定の資材・教材を必要とする模型飛行機製作は早期に困難になっただろうと思います。だから、昭和16年時点で計画された模型飛行機教育がどこまで実行されたかは疑問で、筆者の推算した「模型飛行機人口1000万人」は目減りがあるかもしれません。

模型飛行機教育が長期間にわたり、高年齢・高習熟度に至れば、自習能力が付くと思いますから、教育システムが無くなり先生が居なくなっても、興味のあるグループは自分で活動を続けるでしょう。時代的に飛行機は興味の対象になる要素が強く、自発的な参入は期待できます。しかしながら、模型飛行機教育を受けた年齢が低く、継続期間も短かったとすれば、自習能力は低く、独力の継続は困難です。

この環境に追い討ちをかけたのが、占領軍による、いわゆる「模型飛行機禁止令」です。
後年の分析に拠れば、米軍が意味する「模型飛行機」は、風洞実験模型のような実機の開発を目的とする「模型」であって、ホビー/スポーツとしての模型飛行機は指していなかったということです。
このことは、北村小松氏が交際のあった米軍関係者に確認して明らかになったようですが、すでに役所の公式な通達として流れてしまい、昭和23年(1948)くらいまでは模型飛行機を飛ばすことは非合法活動になってしまいました。現実に、警察に呼ばれ、機体を没収されたモデラーが居たようです。
占領軍が絶対の時代であり、実態を把握する英語力の無い日本の官僚が米軍に追従し、「模型」を拡大解釈したのかもしれませんが、模型航空界にとっては残念な事件でした。
対照的なのが第1次大戦後のドイツの対応で、ヴェルサイユ条約の「航空禁止」の抜け穴を探して、スポーツ航空に活路を求めた「したたかさ」が当時の日本にあれば、日本の模型航空の復興や国際化も数年早まっただろうと思います。

「模型飛行機禁止令」は、公式にはサンフランシスコ講和まで有効であったはずですが、それより前に黙認になり、もっと筋金入りのモデラーは米軍基地内に入って米兵と一緒に飛ばして、バルサとタバコとチョコレートを稼いでくることもあったようです。


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November 15, 2009

1392模型飛行機の教育⑫

1392模型飛行機の教育⑫:趣味際人

昭和20年(1945)8月に敗戦したわけですから、理屈の上では20年3月までは模型教育の卒業生が居るわけです。戦争終末期は教育界も混乱してそれどころではなかったとしても、19年3月までは何とかなったとすれば、昭和16年から3年間は教育できたことになります。

昭和16年に国民学校8学年が一斉に模型教育を始めたのか、上または下などの特定学年から順次・漸進的に行なったのかわかりませんが、1学年に200万人くらいの学童が居り、1年間でも講習を受けた人員は合計で数百万人から1千万人超になると思われます。
これだけの学童に模型飛行機を教育するには、フルタイム換算で(現実は諸科目の先生が手分けしたと思いますが)数万人の人手と、それなりの知識が必要なわけで、少なくとも初歩的な知識を備えた大人の指導者が一定数は必要です。さらには、その下部指導員を指導する中級以上の技能・知識を持つモデラーも多数必要とします。
終戦時、あるいはそれより少し前には、1000万人の学童を底辺とするピラミッド構造の模型人口が存在した事になるわけです

昭和16年(1941年)に国民学校の1年生~8年生だとすると、1927年~1935年生まれで、「ジュニア・プロブレム」が言われ始めた1960年には25歳~33歳と言う、模型航空活動の適齢期?になるはずです。この年代は、筆者より数年~十数年先輩になり、活動時期はダブってくるわけですが、上記の巨大な母集団ほどは居なかったのです。

筆者の模型航空活動は、中断をはさんで2期に分かれます。
前半は1955年ころから1970年ころまで、国際級・国内級の競技を舞台に、大きな飛行場所でトップレベルの飛行を追及していた時代です。後半は、20世紀末に、いわゆるパーク・モデラーとして復活して、現在に至る活動です。
前半の時期においては、いうなればエリート・クラブに入ったので、多くのクラブ員の年齢は父親に近い層で、上記の「戦時模型航空教育」年代層は少数でした。加えて、筆者の年代層は「最後の新人」と言われ、後に続く参入者が無かったので、長年に及び先輩しか居ないクラブで下働きをしなければならなかったのです。
復活後の後半活動では、自適の模型航空活動をされる戦時模型航空教育年代の先輩たち多数に出会うことになりました。公園で飛ばしている人たちの多くは、還暦近い筆者より年長で、またしても「若手・新人」になってしまったのです。(続)


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1391模型飛行機の教育⑪

1391模型飛行機の教育⑪:趣味際人

1930年代~1940年代の模型航空界としては、実機の世界が元気が良かったことにつれて、進歩が著しい時代だったと言えます。
NACA(現NASA)や、ゲッチンゲン、RAFなどの航空研究所から翼型の座標と特性が発表され、そのデータをモデラーが自由に利用できるようになったのは、1930年くらいからです。当時の模型雑誌にはその転載が見られます。このデータがあって初めて「性能計算」が可能になるわけで、あてずっぽでは無い論理的な設計が出来るようになったわけです。

折りしも、前述のような国家的な模型飛行機の教育が始まり、専門学者が参画すれば、まず理論面が固められるわけで、その参考書もいくつか発行されています。
但し、この時代の模型航空の「理論」は、R数の影響を考えずに実機の航空学者が構築したものなので、模型機種によっては後年その差異が大きく出たものもあります。たとえば、NACAなどから「(実機の)優秀翼型」として発表されたものが、模型機に付けると滑空比が半減した場合などもありました。
ちなみに、筆者が愛用したMVA123翼型は、昔の複葉機の翼型で、支柱や張り線を使ってもたせる薄翼(5.6%)です。実機の場合は、このような薄翼は片もちの単葉では強度が足りないため、12%厚以上にせざるを得ません。しかしながら、支柱などのない近代的な設計にすればトータル的に抵抗が減るわけで、実機にすれば新しい高性能翼型です。
このような一時的な混乱はありましたが、正則な模型飛行機の設計法が固まってきた時代なのです。

このような翼型情報を読み取って利用するためには、座標から翼型を描く方法や、ポーラーカーブを読んでCL値、CD値、揚抗比などを理解することなどが必要で、参考書も詳しく触れています。

実践面の、学童の工作能力は、現在よりも大幅に高かったと言えます。
鉛筆が削れず、刃物ナシの模型飛行機教室を開かざるを得ない現代に比べて、当時の小学生高学年は、ホウ材のブロックからライトプレーンのプロペラを削りだすことが出来ました。「プロペラを削れる」と言うことは、現在では模型つくりの中級技能検定にパスするような高い技能です。それが出来れば一人前のモデラーなのです。

だから、当時国民学校で数年の模型飛行機教育を受けた学童のもつ技能や知識は、現在の1日制の模型飛行機教室の受講生よりも、大幅に高いと言えるでしょう。


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November 13, 2009

1390模型飛行機の教育⑩

1390模型飛行機の教育⑩:趣味際人

戦中の日本本土の人口は、7000万人程度だと思います。「人生50年」の時代ですから、単純平均だと年齢1歳当たりの人口は140万人ですが、子供が多かった時代ですから学童は1学年に200万人くらいは居たのではないでしょうか。
模型飛行機教育は国民学校8年間を対象に行なわれていますから、一斉に全員が受けたとすれば1600万人が対象です。現実に行なわれた期間は、昭和16、17、18、19?年の3~4年間だと思いますから、対象人数はもっと少ないかもしれませんが、それでも数百万人から1千万人に及びます。ちなみに、筆者の姉は当時私立の女子国民学校の4~5年生でしたが、教科で模型グライダーの製作を行なっており、学童全員に普及したことを裏付けます。

「レジャー白書」に拠れば、現在の「模型人口」が、全部で400万人といわれています。この中には、自動車・船・鉄道などが含まれ、しかもプラモデルなど観賞用の形態模型が含まれます。
現在の「飛行する模型飛行機」の人口は不詳ですが、上記の模型飛行機教育を受け、タテマエとしては製作と飛行を経験した学童の数は、現在の模型飛行機人口よりも2桁くらい多いと思います。

数字から言えることは、当時の模型航空界は文部省の国策に便乗して、「模型航空教育」を行なった結果、大膨張(大バブル)を達成したわけです。これは、それなりに評価すべき事実であり、その影響や遺産については後述します。

しかしながら、この大膨張にはいくつかの環境条件があり、その成功体験を現在に再現することはきわめて困難だと思います。
1930~40年代は、戦時であり、プロペラ式飛行機の近代化・熟成・完成の時期に一致しました。従って、頻繁に軍用機のニューモデルやマイナーチェンジの発表があり、航空界は活性化していました。科学少年たちの大部分が、航空界を注目していたわけです。だから、模型飛行機を指向する予備軍層は豊富であり、特に勧誘しなくても参入する環境にあったと考えられます。
現在は、「科学少年」そのものが品薄であり、車もパソコンもロボットもバイオも元気であり、相対的に航空は落ち目です。飛行機が巨大化した結果、メーカーは集約され、ニューモデルの種類は激減しました。1930~1940年代のように、複数国の複数メーカーが、航空技術の急速な進歩を追って、頻繁に新型の戦闘機を発表していた状況に比べると、はなはだ退屈なのです。

航空界が上記の追い風環境にあった1940年ころ、ナチス・ドイツと言う特異な政策の国のお手本があり、それに追随した結果が日本模型航空界の大バブルであったとすれば、そのような機会・環境は過去のものであり、今後には期待できません。
もっとも、国による模型航空教育システムは、旧ソ連をはじめとする東側各国に採用され、それぞれの国の模型航空を押し上げたことも確かです。旧ソ連・ハンガリー・ポーランド・ルーマニア・中華人民共和国・北朝鮮など、戦後の一時期乃至は現在までも世界選手権を賑わしたことは事実です。


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November 12, 2009

1389模型飛行機の教育⑨

1389模型飛行機の教育⑨:趣味際人

戦中を中心として模型航空が国家的プロジェクトになり、追い風の環境になったので、木村秀政先生のような本格学者の著述が、大手の出版社などから雑誌や単行本として発行されています。今日でも役に立つような程度の高い記事ですから、教育を行なっている学校教員や「模型飛行機の専門家」を対象とした参考書と思います。
これらも、今日の目で読んでみると、さまざまな流儀のものが混在しています。
たとえば、前回にとりあげた「模型航空」誌(毎日新聞社)は、国際派であり、戦争中もアメリカ系の文献資料を掲載していました。これに対して、「模型」誌は、文部省系の内容だったといわれます。

参考書も、両派が分かれます。
「模型飛行機の理論と実際」(山崎好雄:平凡社:昭和16年)は、著者が文部省普通学務局長でもあり、ドイツのホルスト・ヴインクラーの著書を参考にしている、ドイツ流模型航空です。模型工作・航空機の発明(東京高等師範学校教授・三苫正夫:昭和16年:学習社)もその流れのようです。  
これに対して、「模型航空機の設計」(原愛次郎 浅海一男:成徳書院 昭和18・1943)は、「模型航空」誌の流れで、英米流です。

科学技術は思想とは独立ですから、要するに飛べばよかったわけです。路線論争もあったようですが、現場の飛行場の生徒と指導員の飛ばし方の指導に関してはどうでも良い問題だったのかもしれません。
但し、学校で教えられる程度のレベルでは、競技的な飛行は無理であったと思います。望遠レンズの不足など当時の写真機材の条件もあるかもしれませんが、当時の写真には飛行中の場面が少なく、学童が飛行機を持って整列し行進する場面が目立ちます。学校教育の場において、まともに飛んだことを前提とした模型飛行機の出来栄えの評価、つまり機能による良し悪しの判断が可能であっかどうかは疑問です。本来の目的は、この点の体感であるはずです。

模型飛行機が、多科目横断型の、総合・システム教育の教材という意識はあったようです。
理数科・工作・体育という壁を越えて、連携プレイでひとつの目的を勉強・追求するという考え方は、現在でも必要なことであり、その教材としての資質はあると言えます。


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November 11, 2009

1388模型飛行機の教育⑧

1388模型飛行機の教育⑧:趣味際人

(承前)
文部省としては、お手本にしたドイツ流の模型航空をやりたかったのだと思います。
然るに、現場指導の中核となる「模型飛行機の専門家」は、英米流の模型航空を学んでいたのではないでしょうか。

昭和初期(一桁くらい)の日本の外国語教育状況を調べるとウラは取れると思いますが、昭和10年台初頭の一般層を考えると、英語のほうがドイツ語よりも普及していたのではないでしょうか?しかも、初めての模型飛行機ブームは1910年ころを中心にイギリスで起こっていますから、英語の文献も豊富であったと思います。
当時の雑誌に「模型飛行機の専門家」として登場しているのは、航空学専門家を兼ねる木村秀政・本庄季郎両氏のほか、北村小松(流行作家)・三島通隆さんです。三島さんは戦後もJMA会長を数期勤められています。

北村さんも三島さんも当時の著名人・トップモデラーでしたが、今日的に見ると両方とも知米派で、軟らかいほうです。ちなみに、前回に引用したアメリカの模型界の状況は、三島氏が昭和16年の「航空朝日」誌に掲載されたものです。
真珠湾は、昭和16年の12月ですから、この時期は曲がりなりにも日米関係は平和で、米国の状況も公正な視点で報道されていました。

それどころか「模型航空」誌(毎日新聞社)では、開戦後もアメリカの模型雑誌(モデルエアプレーン・ニュース?)の記事が、そのまま翻訳掲載され、正当に評価されています。
コルダ機の設計図が大きく扱われ、当時の最高級の模型機の例になっているのも同誌上です多。
英語を教える学校が無くなったり、野球が英語抜き(「ストライク」は「よし」、「ボール」は「だめ」でした)でプレイされたりした当時の国粋的な世の中に比べると、模型航空界はかなり国際的であったようです。


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November 10, 2009

1387模型飛行機の教育⑦

1387模型飛行機の教育⑦:趣味際人

⑤回に
2)、昭和14年に、小学校における模型教育の研究調査に着手。協議会メンバーは、航空学者・航空機設計者・製作者・「模型飛行機の専門家」・児童教育心理学者・軍の航空教育関係者・手工科の先生。

と書きましたように、船頭は多彩です。紙の上の案を作るに当たっては各位の専門知識が役立ちますが、実践に当たっては「模型飛行機の専門家」、つまり我々のご同類(モデラー)がキーマンにならざるを得ません。特に飛行現場での指導と言うことになると、はっきり言ってほかの専門家各位は無理です。学校の先生を養成して飛行現場指導に当てるとしても、その養成の指導を行なうのはモデラーたちしか出来ません。

筆者の偏見かも知れませんが、モデラーは組織人よりも自由人の資質が強く、ヤンチャ坊主が多いような気がします。BOM時代ならば、全部を自分で決める活動ですから、組織的に分業することには馴染まないのです。しかも、現在ほど複雑に発達していない時代で、名人芸の一品生産が通用しましたから、その傾向は促進されます。
トップが文部省の「国家的目標」であるのに、現場の直接的指導者は自由人で、多くは一流を編み出した天狗であるとすれば、相当のねじれ状態が生じたと思います。

前述のドイツのシステムのような、国が音頭を取って、公的組織を使って、国費によって青少年全員に模型航空の場を与え、教育する方法を「ドイツ式模型航空」と称していたようです。
これに対置されるのが、「アメリカ式模型航空」であり、当時(昭和16年、1941年)すでにAMAが存在し、会員には損害保険が付き、会員による全国規模の競技会も開催されていました。多分、CL、RCも導入されていたはずです。つまり、組織や競技に関しては、現在とあまり変わらないシステムが出来ていたといえそうです。
機体の傾向も、競技(滞空)に特化し、個人が自己責任において最適化をはかっていました。スパイラル上昇や旋回滑空(当時のエンジン機は、左―右パターン)もすでに導入されていましたが、このパターンは当時の日本では「実機と異質である」と言う理由で、拒否反応がありました。
いずれにしても、自分で会費・保険料を払って、個人的な栄誉のために競技を行い、競技性能だけを目標として機体を作ると言う、個人的競争原理は「ドイツ式」と対照的でした。(続)


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November 09, 2009

1386模型飛行機の教育⑥

1386模型飛行機の教育⑥:趣味際人

(承前)
学制変更で、小学校が国民学校に変わり、教育の指針も当時の国策をより強く反映したものとなりました。模型航空教育もその方針に沿ったものになり、ホビー/スポーツ的な面は捨象されます。

教育勅語の「国華・精華」「皇国の道の修練」に沿って
「各教科ならびに科目は、その特色を発揮すると共に、相互の関係を緊密にする」
「具体的・実際的なら閉めること」
「児童心身の発達に留意する」
「児童の興味を喚起し、自修の習慣を進む」>>>模型飛行機は適切な教材である

芸能科・工作
「国民に須要なる芸術技能を修練せしめ、情操を醇化し、国民生活の充実に資せむ」
>>>実験・独創・体験を重視
工作「物品の製作に関する普通の知識技能を得さしめ、機械の取り扱いに対する常識を養い、工夫・考案の力を培う」
1年生から高等2年生までの、8年がかりの長期計画。

繰り返しますが、模型航空教育の出だし(昭和12年の中学校の滑空訓練奨励)は、グライダー操縦の予備活動・「手段」でした。

いささか時代を感じさせる内容ですが、戦時中といえる昭和16年当時の模型飛行機教育の主旨・総論は以上でした。
但し、模型航空は複雑システムであるので、具体的な各論としては当初より議論がまとまらなかったようです。


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November 08, 2009

1385模型飛行機の教育⑤

1385模型飛行機の教育⑤:趣味際人

日本は、前述のドイツの模型航空教育システムをお手本にして、文部省が昭和12年ころから模型飛行機教育を立案して、実施しています。独・日ともに、空前の、国家規模のホビー/スポーツ振興策であったといえます。これは、「絶後」ではなく、第2次世界大戦後に旧ソ連や、その衛星国、中国、北朝鮮などが、国家目的達成の手段として採用し、その影響は現在まで残っています。

「航空朝日」誌の模型航空特集号(昭和16年4月)の「国民学校と模型飛行機について」:文部省普通学務局:関口隆克によると、日本の状況は以下のとおりです。

文部省は、子供の航空教育に対して小中学校の全ての学科で行なおうとしました。理数科・工作がもっとも関係が深く、中心は、滑空訓練と模型航空機でした。

1)、昭和12年に、正課にする目的で中等学校3年(16歳)滑空訓練採用を奨励する方針を出します。それを目標に操縦・製作の指導教員養成。指導教程編纂。教材機(実機グライダー)を設計します。16歳未満は、模型航空機製作など予備的教育を実施することにします。

2)、昭和14年に、小学校における模型教育の研究調査に着手。協議会メンバーは、航空学者・航空機設計者・製作者・模型飛行機の専門家・児童教育心理学者・軍の航空教育関係者・手工科の先生。

3)、昭和15年に、小学校で教える教程試案。全国の師範学校、小中学校の工作・作業の先生の府県代表を東京・広島の高等師範に集め1週間の講習会開催。受講者は、各地区の中心として各地で講習会・研究会を開催。試案を修正。

4)、昭和16:上記を踏まえ第2次試案作成・発表(小1年生から高等小2年生までの各学年の手工、または国民学校の芸能科の工作で作る模型機の形式と、制作・飛行の指導要領)。本年より学制が変わり「国民学校」になる。(続)


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1384模型飛行機の教育④


1384模型飛行機の教育④:趣味際人

(承前)
1930年代以降のドイツでは、学校および少年団で指導者の下に模型機の製作が行なわれました。団体訓練の一環であるため、模型機1機を多人数で手分けして製作しています。設計や用材も一定のようです。
だから、前回に記した全国競技会の「参加500機」と言うことは、その何倍かの人数の学童がそれに参画していることになります。これに予選落ちの人数が加算され、エンジン機やゴム動力機を加えると、多分、数万人と言う模型人口(それも青少年だけ)がはじき出されます。

学校・少年団などに加えて、全国7箇所に指導員養成学校があり、教員などが講習を受けています。シュミッツの「模型空力」の発行は戦後になりましたが、間に合えばこのような場の教科書・参考書に使われたと思われます。
また、15歳くらいの若年者でも、飛行に当たって風速計・気圧計など気象機器を利用しており、カタパルトを使って滑空性能を定量的に把握することが行なわれています。

以上の戦前のドイツの模型航空界の状況は、航空朝日誌の模型航空特集号(昭和16年4月)の佐藤博・九大教授の記事を元にまとめたものです。佐藤教授は、1940年の東京オリンピックのグライダー競技開催のために渡独したものと思われます。時代が時代だけに、ドイツ政府の宣伝もあるとは思いますが、組織力のある全体主義国家が本腰を入れてやらないと出来ない規模の「模型飛行機教育」です。1930年代のドイツの福祉政策、国民レベルの保養地整備などは充実していたようですから、全国ならびに地区の大きな模型航空競技会の開催は容易であったと思います。

環境は十二分に整備され、指導者も多く、少し上の先輩の指導も受けられるが、機体や用材は規格化され、製作や飛行は団体で行なうという段取りが、優秀なグライダーパイロット・飛行機パイロットを養成するためには、適していたとは思います。但し、この教育法が模型航空そのものの楽しみのために最適であったかどうかは、議論があるところです。


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